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インタビュー

フリージャーナリスト 外岡秀俊
2014年5月7日(水曜日)、東京にて

ハイディ・バウダー ミスバッハさん  

七歳の時のことだった。

 ハイディが生まれ育ったアーラウは、スイスのチューリッヒとバーゼルの中間、化石で有名なジュラ山脈の麓にある町だ。その自宅の庭で、ハイディはリンゴを食べ、いつものように、絨毯干しの台を結ぶ金属製の棒にぶら下がり、逆上がりをしようとしていた。

 リンゴの汁がまだ手のひらに残っていたのだろう。勢いよく地面を蹴って両足を宙にあげたところで、棒を握る手が滑り、そのまま背中から仰向けの姿勢で、コンクリートの地面に叩きつけられた。激しい衝撃と激痛が背中を貫き、一瞬、気を失った。どれくらい、そうしていたのか。気がつくと、地面に横たわる自分がいた。体をひねって四つんばいになり、痛みをこらえながら、近くにあった日光浴のための寝椅子にたどり着き、そのまま眠りに落ちた。

 気がついた両親が、ハイディのもとにやってきた。

 「わたしは、ここで寝ていたいの」

 両親は、まさかハイディがけがをしたとは気がつかなかった。そのころ、ハイディは新体操に興味をもち、自分なりに練習を始めていた。「そんなことをしたら、事故でけがをする。危ないからおよし」と、両親からとめられていた。ここでけがをしたことがばれたら、もう好きな体操ができなくなってしまう。少女は、必死でけがを隠そうとしたのだった。

 不思議なことに、一晩を寝椅子に横たわって過ごすと、翌日にはもう、ふつうに立てるようになっていた。

 

 だがその事故は、ハイディの体に時限爆弾を仕込んでいたのだった。事故のころには、身長順に並ぶと最前列だったハイディが、急に背丈が伸びて、中学生ともなると列の後半に並ばされるようになった。十三、四歳になると、背が伸びるにつれ、上体が右側前方に歪むような姿勢になっていった。思春期になってあらわれる典型的な脊椎側彎症である。病院に連れられてレントゲン写真を撮ったところ、背骨の胸椎の一部が骨折していることがわかった。医師によると脊椎側彎症は、骨折をしたことと、その痛みをかばうために引き起こされた可能性が高かった。ハイディはそれから三年間、腰から肩近くまで、胸の部分を覆うコルセットをつけることになった。上体はまっすぐになったが、その間に上体の筋肉がすっかり衰えてしまった。

 驚いたことに、その間も、ハイディは好きなスポーツであるスキー続けていたという。ただ、今と違って当時のスキーは、前傾してカンダハーと呼ばれる締め具を倒して靴を装着する仕組みだったので、コルセットをつけたハイディは、その時ばかりは人手を借りねばならなかった。こうして十六歳まで過ごしたせいで、四肢は人並みに丈夫だったが、ときに呼吸が苦しくなるほど、胸の筋肉が落ちるというハンディを背負わねばならなかった。

 

 ハイディは、ギムナジウムに通いながら、一日おきにセラピーに通った。セラピストのもとでトレーニングを続け、マッサージを受けたが、リハビリの効果はいっこうに上がらなかった。立っていても座っていても、同じ姿勢を取っていると疲れ、その疲れが痛みに変わった。ギプスを一ヶ月つけたこともあったが、そのギプスをはずすと、失神した。

 体育の授業は免除されたが、このままではいつまでも好転しない。少女のころから体を動かすことに喜びを覚えたハイディは焦った。早く元に戻すためには、ある程度の負荷をかけるほうがいいのではないか。そう考えたハイディは、十八歳の半ばで、週に二、三回、地元のモダンダンス教室に通うようになった。即興ダンスを繰り返すうちに、不思議と背骨のゆがみは消え、体を自由に動かせるようになった。特定部位を鍛え、集中してリハビリをするよりも、全身の筋肉をどう動かすかを学び、等しく鍛えるほうが効果はあがる。それが、その時期にハイディが自らの体を通して覚えた知恵だった。それともうひとつ学んだのは、「楽しくなければ続かない」という単純な真実だった。

 

 三人姉妹の末っ子であるハイディは、上の姉二人と同じく、大学には進まなかった。父は弁護士、母は専業主婦という恵まれた一家だったが、手に職をもち、すぐに収入が得られる看護師になろうと決めていた。ハイディは学校では十年間ラテン語を学び、母語の高地ドイツ語以外に、仏語、イタリア語も話せる。だが自分では、頭を使うよりも体を使うほうが性に合っていると思った。父親は三人の娘がいずれも大学に進学しなかったことで、「私は罰を受けた」といって嘆いた。

 

 地元の看護学校は三年制だ。同期三十五人が半年の講義を終えるころ、次の新入生が入ってくる。座学、実習のあと、一年目から、正規の看護師の労働の二割を病院の臨床でこなす。内科、外科、ICU、在宅看護などの現場を次々に経験し、最後の半年は、看護師長を勤めてシフト表をつくり、病棟全患者の管理責任を負う仕事を任せられる。スイスでは、日本と同じように、直接の診断や治療方針は医師が決め、看護師はその補助をするのが基本だが、ハイディによればスイスでは、より患者に接する機会の多い看護師が緊密に医師と連携し、治療や投薬などで積極的に提案する傾向があるという。

 

 看護学校に通いながら、ハイディはダンスも続けていた。患者を動かす際に、自分の背中や腰を痛めないようにするにはどうしたらよいのか、ハイディはそのころから、自己流のコツを編み出すようになった。

 

 卒業の臨床試験で、脳卒中の女性患者をベッドから椅子に移動し、座らせるテストがあった。ふつうはリフトを使うか、二人の介助で患者を移動させる。ところがハイディはなんと、一人で重たい女性患者を運び、椅子に座らせてしまった。

生真面目な表情で見守っていた二人の試験官は、それを見て仰天した。

 「あんな無責任な学生を卒業させるわけにはいかない」

 一人がそう主張すると、もう一人の女性がこう答えた。

 「こんな、クールな動かしかたは、はじめて見た」

 結局、マイナス点はついたものの、ハイディは無事、看護学校を卒業した。

 

 スイスでは、病院付属の看護学校の卒業生は一年間、その病院での勤務を義務づけられている。ハイディも地元の病院で一年働き、勤務先にはダボスの皮膚・アレルギー専門病院を選んだ。

 今でこそ世界の指導者や実業家が集う毎年恒例となった「ダボス会議」で名高いが、トーマス・マンが「魔の山」で描くように、ダボスはもともと、サナトリウムなど長期の転地療養で名を知られた土地だった。ぜんそくなどの患者にもスキーを勧め、病院の職員も非番や夜勤明けにはスキーを楽しむ。ハイディはそうした環境が好ましくてダボス勤務を選んだのだった。冬はスキー、夏は山歩きでほとんど地元すべての山々を歩き回って、たちまち四年近くが過ぎた。

 スイスでは、看護師は若いうちにできるだけ多くの病院、異なる分野での経験を積むことが奨励されている。ハイディも、次の職場にはチューリッヒ郊外にある内科病院を選び、一年後には、地元アーラウの高齢者医療専門病院に、勤めることになった。ここでハイディは看護副部長を務めながら、付属の看護学校で講師をし、学生達を教えることも始めた。

 

 さらにアーラウに近いバーデンで新設されたリハビリ専門病院に招かれ、設立準備に奔走して開院後は看護部長も勤めた。この病院では両親が休めるよう、最重度の身体障がいの子どもを預かることもあった。だが、やってみると、患者の体を動かすことは、とても難しい。自分ではなんとかできても、同僚や部下にそれを伝えることは難しかった。

 そうこうして、さまざまなメソッドを探すうちに出会ったのが、「タッチウエル」だった。

 

「タッチウエル」は、アメリカのフランク・ハッチ氏、レニー・マイエッタ氏が始めたメソッドで、のちに「キネステティック」として定着する考え方だった。そのセミナーで知り合った女性と町で出会い、本格的なインストラクターの養成講座に参加しないかと誘われた。ハイディは15人の受講生の一人として、チューリッヒで開かれた養成講座に参加することになった。1987年のことだ。

 

 90年に講座を修了し、ハイディはインストラクターとして教える立場になった。スイスにタッチウエルを教える現地法人を作ることになり、ハイディは病院をやめてその現地法人の責任者になった。

 はじめの二年はハッチ氏と一緒に講習を教えたが、デュッセルドルフの病院で全看護師ら200人近くを2年以上にわたって教える講座を一人で引き受け、さらにウルムのICU全看護師を教える仕事も加わった。

 

 創始者のハッチ氏らは、科学やダンスの経験が豊富でも、看護の経験がない。座学が中心で、看護や介護にどう応用するかは、自分で編み出すしかなかった。しかし、創始者にしてみれば、自分たちの理論を逸脱するかのようなハイディの動きは、面白くなかったのだろう。

 

 両者の亀裂は、98年、ウルムでインストラクターが集まった専門家会議で決定的になった。ハイディはそれまでに自分の講習に参加してくれた三人の四肢マヒの患者さんに協力してもらい、どうすれば患者さんに楽に動いてもらえるのかを教えるワークショップを開いた。一人は折りたたみナイフのように腕を突っ張らせる「痙縮」の障がいがあり、一人は頭部と左肩を動かせるだけ、もう一人動かしやすい人だが体重がある。その三人を車椅子から立たせ、そのまま移動させるというワークショップだ。三人はこれまでの経験から、誰よりもそのコツを理解しており、逆にインストラクターたちを「指導する」立場になった。トレーナーたちは、簡単には動かすことができなかった。

 

 その不満が伝わったのか、そのワークショップは、いっぱいにグラスにたまった水がグラスから溢れるきっかけとなる最後の一滴のように、創始者二人がハイディを見限るきっかけとなった。二人はウルム病院の看護部長に、ハイディを任から解く決意を告げ、一ヶ月後には両者の対立が決定的なものとなる。まだ続くプロジェクトの受講者からは、ハイディに継続を求める声があり、ハイディは講義を続けたが、その給与をめぐって紛糾があり、ハイディは弁護士を立てて支払いを求めるなど、関係は悪化した。

 

ハイディにしてみれば、創始者二人の理論を実践しようとしても、まったく新たにメソッドを開発する以外に、道はなかった。人の体の動きについて、ハッチ氏に学んだことには感謝しているし、さまざまな場で、その謝意は繰り返し公にしている。しかし、実際に患者さんが、死の直前まで、普通に生活をし、品位と楽しみのある人生を送るためにどうしたらよいのかは、自らの骨折やリハビリ、看護体験などをもとに、手探りをするしかなかった。そのメソッドは、二人の創始者の土台の上に、新たに咲かせた花なのだと、ひそかに自負している。

略歴

外岡秀俊(そとおか・ひでとし)

作家・ジャーナリスト

1953年ー2021年12月23日

札幌生まれ。

77年、朝日新聞入社。

学芸、社会部などを経てニューヨーク特派員、欧州総局長、東京編集局長。

2011年早期退社で札幌に戻る。

1976年に本名で「北帰行」(河出書房新社)、

86年に中原清一郎名義で「未だ王化染はず」(福武書店)を発表。

退社後の2014年に「カノン」(河出書房新社)、

15年に「ドラゴン・オプション」(小学館)などを、

いずれも中原名義で発表。​

コラム「道しるべ」を朝日新聞北海道版(デジタル版)に執筆

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